外国による援助活動の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:53 UTC 版)
「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の記事における「外国による援助活動の開始」の解説
1921年9月にA.R.A.の活動が始まる。彼らの援助地区は、ヴォルガ流域とウラル地方全域の7つの地区、さらにモスクワ、ペトログラードを合わせた9地区であった。 西ヨーロッパでも援助について反発があり、ナンセンはボリシェヴィキの手先だという強い非難を受けていた。1921年秋のジュネーヴの国連会議における飢餓救援のための講演でナンセンは、2、3000万人の人々が飢饉と死に晒されており、2ヶ月のあいだに援助を受け取らねば彼らは全滅する。また、自分たちの活動が、反ボリシェヴィキ勢力の妨害を受けていること、それは、この救済活動によってロシア共産党政府に力を貸すことになるのではないかという恐れから来ている。ナンセンは、西ヨーロッパには情け深い援助を行う人々がいることをロシアの民衆が知れば、共産党だけが力を持つような事態にはならないであろうと言った。かつ、ロシア共産党が力を手に入れようと、2000万人の飢えた人々を見殺しにするより良いではないか、と演説した。 国別の救援貨物の量(2632万9000プード)は、アメリカが突出して一位の72.9%だった。以下、ドイツが12.5%、スウェーデンの4.7%、ラトヴィアの4.6%である。
※この「外国による援助活動の開始」の解説は、「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の解説の一部です。
「外国による援助活動の開始」を含む「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の記事については、「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から外国による援助活動の開始を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から外国による援助活動の開始 を検索
- 外国による援助活動の開始のページへのリンク