壬生福正
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壬生 福正(みぶ の ふくせい、生没年不詳)は、平安時代初期の官人。姓は吉志。官位は外従八位上・男衾郡大領。
出自
壬生吉志氏は、推古天皇15年(607年)に設置された壬生部の管理を行っていた渡来系氏族[1][2]。
経歴
武蔵国男衾郡榎津郷の戸主。仁明朝の承和8年(841年)才に乏しい息子二人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを郡衙に願い出る。この嘆願状は国衙から民部省を経て太政官へと送られ、太政官は「例なしといえど公に益あり」と判断し、許可する旨の太政官符を下した。なお、雑徭については別途徴発する旨の但し書きが付けられた[3]。
- 壬生継成(19歳) 調庸料:布40端2丈1尺、中男作物:紙80張
- 壬生真成(13歳) 調庸料:布40端2丈1尺、中男作物:紙160張
承和2年(835年)神火により武蔵国分寺の七層塔が1基焼失してしまい、放置されていた。承和12年(845年)福正は塔の再建を申し出て許可されている[4]。
この2つの行為について、福正が外従五位下の位階を欲して行ったとの推測がある[5]。
脚注
参考文献
- 壬生福正のページへのリンク