壁の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 05:32 UTC 版)
中世の間、シティ・オブ・ロンドンの管轄領域が拡大するにつれて、その境界線は旧市街の壁と一致しなくなった。管轄領域は西側に拡大し、歴史的な元々の支配地 (settlement) の西側の境界線、つまりフリート・ストリートに沿ってテンプル・バー (Temple Bar) (英語版) に続くフリート川に達した。市はまた、ホルボーン・バー (英語版) 、スミスフィールド・バー、ホワイトチャペル・バーなどの古い壁のある地域のすぐ外側にあった有料の門、"シティー・バー" を利用した。これらは都市への重要な入口で、市がこれらを統制することは、通常の取引よりも市の特権を維持するために不可欠だった。 1666年9月のロンドン大火で、ロンドン・ウォールの内側の中世のロンドンの町は、ほとんどが焼失した。その後シティ・オブ・ロンドンへの7つの関門には数多くの修理と再建が施されたが、1760年から67年までの間に全て取り壊された 。19世紀まで壁を壊す作業が続けられたが、壁の大きな部分は他の構造物に組み込まれた。第二次世界大戦中のロンドン大空襲で爆撃被害を受けた町に残された、最も大きな建物のいくつかは、ロンドン・ウォールの残骸だった。残っている壁は数少ない (しかし重要である) が、そのうちいくつかはロンドン博物館 (英語版) の庭、バービカン・エステート (英語版) 、タワー・ヒルの周辺、ノーブル通り (Noble Street) やセント・アルフェジ教会 (St Alphege) (英語版) で見ることができる。またロンドン・ウォールの一部が、現代の建築物の壁の一部や基礎部分になっているものもあり、その場合はそれらの建物の内側からしか見ることはできない。最も巨大で最もアクセスが簡単な壁の断片の一つは、タワーヒル駅のすぐ外側に立っており、その前にはローマ皇帝トラヤヌスの像が立っている。
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