地号作戦以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:53 UTC 版)
この時点でのレイテ島の日本軍兵力は約2万人と言われ、うち第1師団を中心に半数は西海岸近くのカンギポット(歓喜峰)地区へ集結できていた。すでに大型船舶が入港する港もなく、船舶の余裕もなかったため、1月中旬に大発などの小型舟艇による撤退作戦(地号作戦)が行われた。第1師団を中心に約800人がセブ島へ撤退できたが、稼働舟艇が全滅したため1月20日で停止に追い込まれた。 以後は丸木舟のカヌーやいかだなどによる小規模な脱出があった程度で、掃討戦に対抗しつつ自活が行われた。3月下旬に舟艇による第35軍司令部の救出が行われセブ島への脱出には成功したが、ミンダナオ島へのカヌー移動途中で空襲に遭い鈴木軍司令官は戦死した。残された将兵の多くが山中で飢餓に倒れ、一部の部隊は生還者がないため今でも消息が判っていない。
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