回民の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 15:54 UTC 版)
1862年春、四川から陝西に侵入しようとした太平天国軍に備えるために動員された回民(ホイミン:漢語を話すムスリム)の団練(民間武装組織)が漢人の団練と衝突した事件をきっかけに、渭水盆地の全域は漢・回の相互殺戮に巻き込まれた。「洗回」と称する、平穏を保っていた回民に対する虐殺事件があちこちで発生し、逆に回民側が、洗回が来るという噂を流して先に蜂起した場合もあった。これら、回民の反乱は翌年(1863年)に甘粛、その翌年(1864年)に新疆へと飛び火した。 1864年6月、クチャの回民が一部の現地ムスリムと協同して官署を襲撃したのをきっかけに、反乱はごく短期間のうちに新疆全土におよんだ。イリの恵遠城とカシュガルの満城の籠城はやや長期に及んだが、各地の駐屯軍は数カ月もしないうちに壊滅した。クチャの蜂起者たちはトゥグルク・ティムール・ハーンを改宗させた聖者の子孫であると信じられていたラーシディーン・ホージャをハーンに推戴した。彼は霊的能力を宣伝し、教団組織を動員して人員と物資を集め、他のオアシスへの遠征軍を組織した。その軍勢は東のハミから西のヤルカンドまで遠征したが、これらの地方を完全に掌握するには至らなかった。
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