喜谷六花とは? わかりやすく解説

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喜谷六花

俳人、名良哉、梅林寺住職中村楽天主宰の二六吟社同人となる「ホトトギス例会出席し、「日本俳句」にも投句河東碧梧桐指導を受ける。大正4年紅」創刊同時に同人となり、同派の中心的存在となる。昭和43年1968)歿、85才。

喜谷六花

喜谷六花の俳句

我が寡言知る客安き夜長かな
 

喜谷六花

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 01:34 UTC 版)

喜谷 六花(きたに りっか、1877年明治10年)7月12日 - 1968年昭和43年)12月20日)は、日本俳人曹洞宗華嶽山梅林寺住職、28世慈門良哉大和尚、曹洞宗権大教師。東京府出身。

経歴

1877年(明治10年)に浅草区(現在の東京都台東区東部)浅草馬道で生まれる。16歳で曹洞宗の僧籍に入り、曹洞宗高等学林(現在の駒澤大学)や哲学館(現在の東洋大学)に学び、1897年(明治30年)に下谷区(現在の台東区西部)の梅林寺住職となる。そのころから俳句を詠み始め、日刊紙『二六新報』の中村楽天が主宰する「二六吟社」同人になったのを皮切りに『ホトトギス』や『日本俳句』などに定形俳句を投句、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、碧梧桐の門人となる。以降は碧梧桐主宰の『海紅』同人となり自由律俳句を詠み、海紅を去った碧梧桐の『三昧』に一時は参加するなどしたが、三昧の主要同人であった風間直得の提唱するルビ俳句を嫌い、中塚一碧楼の主宰となって以降の海紅に再び戻った。1940年の大政翼賛会発足に伴い結成された日本俳句作家協会(後の日本文学報国会)において評議員に就任[1]。戦後、一碧楼の死後は海紅の選者となって、長く結社を支えた。1968年(昭和43年)、91歳で没。

句集・編著

  • 『寒烟』(1912年)
  • 『梅林句屑』(1928年)
  • 『虚白』(1960年)
  • 『碧梧桐句集』(瀧井孝作との共編・1947年)

脚注

  1. ^ 日野百草「戦前の自由律における社会性俳句」殿岡駿星編著『橋本夢道の獄中句・戦中日記』290頁。

参考文献

  • 松井利彦/編『俳句辞典・近代』(1977年・桜楓社
  • 久松潜一・他/編 『現代日本文学辞典』(1968年・明治書院
  • 日野百草「戦前の自由律における社会性俳句」、殿岡駿星編著『橋本夢道の獄中句・戦中日記』(2017年・勝どき書房)

関連項目

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