唐への帰順と文化交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 16:29 UTC 版)
文王は即位直後から唐に積極的に使節を派遣し、半世紀の在位中に記録に残るだけでも50回以上の通貢が確認されている。これは政治的な安定を求める目的以外に、唐から先進的な文化や制度を学ぶ目的も重視された。高王大祚栄や武王の代にもある程度の留学生派遣と漢籍導入が行なわれていたが、文王が即位すると留学生数は飛躍的に増大し、より多くの漢籍を日本にもたらしている。事実この時代の墓碑とされる貞恵公主墓碑と貞孝公主墓碑には『尚書』『詩経』『易経』『礼記』『春秋』『論語』『孟子』『史記』『漢書』『後漢書』『晋書』など多くの書籍からの引用が見られる。
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