呉用威
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呉用威 | |
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『維新政府之現況』(1939年)
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プロフィール | |
出生: | 1873年(同治12年)3月11日[1][注 1] |
死去: | 1941年(民国30年)2月18日[2][注 2] |
出身地: | ![]() |
職業: | 官僚 |
各種表記 | |
繁体字: | 吳用威 |
簡体字: | 吴用威 |
拼音: | Wú Yòngwēi |
ラテン字: | Wu Yung-wei |
和名表記: | ご ようい |
発音転記: | ウー・ヨンウェイ |
呉 用威(ご ようい、1873年〈同治12年〉3月11日 – 1941年〈民国30年〉2月18日)は、清末・中華民国の官僚。字は董卿[1][4][5]。梁鴻志側近の部下であり、中華民国維新政府や南京国民政府(汪兆銘政権)で要職に就いた。
事績
清朝の挙人。南京発審局員、安徽蕪湖屯墾局文案、善後財政局文案を歴任。1909年(宣統元年)、江蘇省興化県知事代理となる。母の喪のためいったん辞職・帰郷するが、まもなく復帰して財政局文案、津浦鉄道局総文案を歴任した[4]。
中華民国成立後の1912年(民国元年)9月1日、北京政府財政部秘書となる。翌年の中国銀行董事、西岸榷運局局長を経て、1916年(民国5年)2月11日に財政部中大夫の位を授与された。同年中に鄂岸榷運局局長署理、財政部河東塩運使に就任している。1919年(民国8年)2月、福建塩運使となり、その後も塩務署運銷庁庁長、財政部参事、塩務署参事、塩務署庁長を歴任している。蔣介石国民政府でも、1936年(民国25年)3月21日に鉄道部秘書として任命された[6]。
梁鴻志が華中での親日政権樹立工作に取り組み始めると、呉用威もこれに参与した。中華民国維新政府創設後の1938年(民国27年)4月3日、呉は行政院(院長署理:梁鴻志)秘書長署理に任命された[7]。1940年(民国29年)3月30日、維新政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流した後の4月5日、呉は監察院(院長:梁鴻志)秘書長に任命された[8]。7月11日には監察院監察使も兼任している[9]。
1941年(民国30年)2月18日、呉用威は在職のまま死去した。享年69(満67歳)[2]。
注釈
出典
- ^ a b 藤田編(1986)、85頁。
- ^ a b 藤田編(1986)、85頁(原典:『南京新報』1941年2月20日、1941年4月10日)。
- ^ 満蒙資料協会編(1942)、603頁。
- ^ a b c 外務省情報部編(1928)、721頁。
- ^ a b 劉ほか編(1995)、1297頁。
- ^ 中華民国政府官職資料庫「姓名:吳用威」
- ^ 維新政府令、民国27年4月3日(『政府公報』第2号、民国27年4月18日、維新政府行政院印鋳局、命令1頁)。
- ^ 国民政府令、民国29年4月5日(『国民政府公報』(南京)第4号、民国29年4月8日、国民政府文官処印鋳局、1頁)。
- ^ 劉ほか編(1995)、1052頁。
参考文献
- 満蒙資料協会編『中国紳士録 第2版』満蒙資料協会、1942年。
- 外務省情報局編『現代支那人名鑑 改訂』外務省情報局、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 藤田正典編『現代中国人物別称総覧』汲古書院、1986年。 ISBN 9784762910463。
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