司馬穎・司馬顒との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:24 UTC 版)
司馬乂はこの後も朝廷に留まったが、好き勝手に朝政を専断する事は無く、政務については全て鄴にいた成都王司馬穎に報告して裁決を任せた。だが、司馬穎は司馬冏打倒の決起への参加の功を誇って驕奢に耽ったので、司馬冏の時代以上に政治が混乱するようになった。さらに司馬穎は権力の独占を画策していたので、司馬乂が朝廷に留まっている事を疎ましく思った。また先の決起の首謀者であった司馬顒は、事前の予想を覆しての司馬乂の勝利により、上述の司馬乂を捨て駒とし朝政を壟断する目論見が果たされなかったため、これに不満を抱いた。 さらに7月になると司馬顒配下の李含と、司馬乂の参軍皇甫商およびその兄の皇甫重が対立し、これが両陣営の軍事衝突にまで発展するに至り、司馬乂はついに李舎を処刑してしまった。これを知った司馬顒はこの一件を口実に司馬乂討伐の兵を挙げ、さらに司馬穎との共同での上書を行い「司馬乂の論功は不公平であり、右僕射羊玄之・左将軍皇甫商と共に朝政を専断し、忠良の臣(李含ら)を殺害しました。羊玄之と皇甫商を誅殺し、司馬乂を封国に還らせるべきです」と述べた。これに対して恵帝は詔を発し「司馬顒は独断で大軍を動員し、京都(洛陽)を侵そうとしている。朕は自ら六軍を率いて姦逆の臣を誅殺する」と述べた。司馬乂は太尉・大都督・中外諸軍事に任じられ、両名の討伐を命じられた。
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