古代・それ以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 02:29 UTC 版)
少なくとも今から二千年も三千年も前には、貝塚を残した人達が住んでいた頃の海は相当深かった。現在の藤戸町付近では、現在の平地面より五メートルから十メートルにも及ぶ高いところに海岸線があったと考えられている。その頃内海の東西航路は、この藤戸海峡を通っていた。造船技術の未熟な当時では、舟は沖の荒波を避けて安全な沿岸航路を選んでいた。 藤戸海峡には、藤戸の泊(ふじとのとまり)や藤戸の渡(ふじとのわたし、ふじとのわたり)と呼ばれる船の停泊や対岸への渡し船を行う港があった。児島が本土から切離されていた頃は、瀬戸内海を往来する舟にとって藤戸の泊(児島の泊)は重要な港であった。また海を渡って児島から本土に入るにも便利な位置にあった。このように十字路に当るところとして、藤戸は交通上極めて重要な要衝であった。『撮要録』によれば、藤戸の渡(藤戸の泊)は粒江村(現在の倉敷市粒江)内にあったとされる。
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