原采蘋との交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 13:54 UTC 版)
亀井少琹と原采蘋は、「清筑の二女」と並び称された。(なお、筑前五女とは、貝原東軒(貝原益軒夫人)、亀井少琹、野村望東尼、二川玉篠、高場乱) 秋月藩 中興の名君秋月長舒(あきづきながのぶ)の主催した、詩画展において早熟の才能を認められた(上記)。その頃より、同年の秋月の儒学者、原古処の娘 原采蘋との交流が始まる。ともに当時の封建制度の中における、武士階級の儒学者の家系にありながら、父親のリベラルな思想を背景に、学問をなすことを奨励された希少な少女同士として、福岡藩と秋月藩と近接した藩ではあるが、離れていても友情を育んだ。1808年には、目を患った少栞のもとに遊びにきた。原采蘋は28才の時に、江戸で遊学に出る前に福岡藩の亀井家を訪れて、少琹にも会っている。
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