南下による勢力拡大と三雄鼎立とは? わかりやすく解説

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南下による勢力拡大と三雄鼎立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:00 UTC 版)

張士誠」の記事における「南下による勢力拡大と三雄鼎立」の解説

その後張士誠飢饉乗り切るため南へ向かって侵攻し天祐3年1356年)には江南経済と文化中心地である平江路を占領し、隆平府と改めて、国都定めたその頃紅巾軍傘下造反勢力一つであった朱元璋は、集慶路現在の江蘇省南京)を占領して応天府改め拠点し、また嘉興は、苗族である楊完者の軍勢占拠していた。天祐4年1357年)、張士誠水軍用いて朱元璋・楊完者を攻撃したが、成果得られなかった。 そこで当時、既に名ばかりとなっていた元朝江浙等処行中書省丞相タシュ・テムル(達識帖睦邇)と手を結んで楊完者を謀殺し、嘉興手中に収めた。楊完者の軍勢住民掠奪暴行働いていたため、張士誠解放者として歓迎された。 楊完者を滅ぼした勢いで朱元璋に対して攻撃をかけたが、反撃遭い懐刀であった弟の張士徳を失ってしまう。朱元璋脅威感じた張士誠は、一旦国号年号廃して元に帰順太尉任官受けたまた、敵対関係にあった方国珍とも関係改善行い後顧の憂いなくした至正23年1363年3月には、紅巾軍実力者劉福通安豊攻め敗死させた。それからほどなく元朝から離反した張士誠は呉王を称し、弟の張士信を丞相とした。 この頃張士誠支配地域は、北は徐州から南は紹興至り応天府拠る朱元璋湖北から江西一帯支配して大漢皇帝称する陳友諒両雄並び立つようになっていた。

※この「南下による勢力拡大と三雄鼎立」の解説は、「張士誠」の解説の一部です。
「南下による勢力拡大と三雄鼎立」を含む「張士誠」の記事については、「張士誠」の概要を参照ください。

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