南下による勢力拡大と三雄鼎立
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「張士誠」の記事における「南下による勢力拡大と三雄鼎立」の解説
その後、張士誠は飢饉を乗り切るため南へ向かって侵攻し、天祐3年(1356年)には江南の経済と文化の中心地である平江路を占領し、隆平府と改めて、国都に定めた。 その頃、紅巾軍傘下の造反勢力の一つであった朱元璋は、集慶路(現在の江蘇省南京)を占領して、応天府と改めて拠点とし、また嘉興は、苗族である楊完者の軍勢が占拠していた。天祐4年(1357年)、張士誠は水軍を用いて朱元璋・楊完者を攻撃したが、成果を得られなかった。 そこで当時、既に名ばかりとなっていた元朝の江浙等処行中書省丞相タシュ・テムル(達識帖睦邇)と手を結んで楊完者を謀殺し、嘉興を手中に収めた。楊完者の軍勢は住民に掠奪暴行を働いていたため、張士誠は解放者として歓迎された。 楊完者を滅ぼした勢いで、朱元璋に対しても攻撃をかけたが、反撃に遭い、懐刀であった弟の張士徳を失ってしまう。朱元璋に脅威を感じた張士誠は、一旦国号や年号を廃して元に帰順、太尉の任官を受けた。また、敵対関係にあった方国珍とも関係改善を行い、後顧の憂いをなくした。 至正23年(1363年)3月には、紅巾軍の実力者劉福通を安豊に攻め、敗死させた。それからほどなく元朝から離反した張士誠は呉王を称し、弟の張士信を丞相とした。 この頃の張士誠の支配地域は、北は徐州から南は紹興に至り、応天府に拠る朱元璋、湖北から江西の一帯を支配して大漢皇帝を称する陳友諒の両雄と並び立つようになっていた。
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