加納鷲雄
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加納 鷲雄(かのう わしお、天保10年11月9日〈1839年12月14日〉- 明治35年〈1902年〉10月27日)は、新選組隊士、御陵衛士(高台寺党)。通称は道之助、別名に伊豆太郎、鴨雄など。維新後は通広(みちひろ)と改名した。
来歴
伊豆国賀茂郡加納村にて農民・高野伴平の長男として生まれる。若くして剣術修行のため江戸へ出、神田於玉ヶ池にあった北辰一刀流千葉道場に入門。後、深川中川町に住む伊東大蔵(甲子太郎)に師事した。一方で窪田鎮勝の神奈川奉行所勤務に篠原泰之進と共に随行し、横浜外国人居留地の警備の任についた。
元治元年(1864年)10月、伊東らと新選組の隊士募集に応じて上洛。のち加盟。翌年春の組織再編で伍長となったが、慶応3年(1867年)3月に結成された御陵衛士(高台寺党)に参加して新選組を離脱した。同年11月の油小路事件では首領の伊藤を討たれ、遺体を引き取りに行った加納ら7人に対し新選組は40人超で待ち伏せし包囲。藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の同志3人を討たれながらも加納、篠原、鈴木三樹三郎、富山弥兵衛ら4人は囲みを脱し疾走、薩摩藩邸に匿われる。同年12月18日、御陵衛士の生き残りと共に油小路事件の報復として、伏見街道で近藤勇を銃撃。惜しくも逃走を許すが右肩に重傷を負わせた。
戊辰戦争では赤報隊二番隊、そして薩摩軍に参加。慶応4年(1868年)4月4日、下総流山にて、大久保大和と名乗り正体を偽って官軍に投降した近藤を判別し、その結果近藤は捕縛。同月、板橋刑場にて斬首された。
加納は明治4年(1871年)に札幌に渡り開拓使として勤務。同15年(1882年)に農商務省へ、同19年(1886年)には民間会社へ転じた後、明治35年(1902年)10月27日に東京麻布の自宅で死去[1]。享年64。墓所は青山霊園、一種イ21-15-7。その墓石には妻・喜舞子の名と共に、加納通廣之墓と刻まれている[2]。
家族
脚注
注釈
出典
- ^ 『新選組のすべて』新人物往来社、1981年5月、193頁。NDLJP:12229039/1/99。
- ^ 釣洋一 編『新選組始末記:写真集』新人物往来社、1981年11月、96頁。NDLJP:12285271/52。
加納鷲雄(かのう わしお)
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「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-の登場人物一覧」の記事における「加納鷲雄(かのう わしお)」の解説
『北海道編』に登場。史実通り伊東甲子太郎が新選組を割った際、御陵衛士につき、油小路の変でも新選組と激闘。
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