劉和殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)
8月、劉淵がこの世を去り、長兄である劉和が帝位を継承した。劉和はもともと猜疑心が強い人物であり、西昌王劉鋭・宗正呼延攸・侍中劉乗に唆された事もあり、強大な軍権を掌握していた劉聡と北海王劉乂・魯王劉隆・斉王劉裕ら兄弟の謀反を疑うようになり(劉聡は大単于として10万の胡人を統べる立場にあり、劉乂・劉隆・劉裕は宮中の兵を領していた)、呼延攸らと結託して彼らを排除しようと画策した。 劉和は時機を見図らって決起し、劉鋭・馬景には単于台にいる劉聡の攻撃を命じた。さらに、他の諸将にもそれぞれ劉乂・劉隆・劉裕を攻撃させたが、劉乂攻撃を命じられていた尚書田密と武衛将軍劉璿は寝返って劉乂に帰順した。その為、劉乂は彼らと共に関所の守備兵を殺して劉聡の下に奔ると、事前に計画を全て漏らしてしまった。その為、劉聡は防備を整えて劉鋭の大軍を待ち構えた。劉鋭は劉聡の陣に備えがあるのを見ると、軍を返して呼延攸・劉乗らと合流し、劉裕・劉隆の攻撃に参加した。彼らは二日の内に劉裕と劉隆を破り、その首級を挙げた。 その翌日、劉聡は攻勢に転じて西明門を攻撃すると、これを陥落させた。驚いた劉鋭らは南宮に逃げ込んだが、劉聡の前鋒部隊がこれを追いかけた。翌日、劉聡軍は光極西室にいる劉和を捕らえ、妻子ともどもそのまま処刑した。劉乗・劉鋭・呼延攸らもまた捕縛し、市街において晒し首とした。
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