前原伊助の生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
原田次郎吉(後の前原伊助)は7年ほど剣術を習っていたが、あるとき下坂十太夫という男が次郎吉の習っていた剣術の流派を馬鹿にした為口論になる。怒った次郎吉は十太夫に試合を申し込み、叩きのめしてしまう。試合に負けた事で下坂十太夫は殿様の不興を買い、下坂家は断絶。これにより居辛くなった次郎吉は地元の姫路から江戸に出る。 ここで次郎吉は疱瘡にかかってしまい、一命は取り留めたものの、左目はつぶれ、髪の毛は薄くなり、顔にはあばたが残ってしまった。 仕方がないから大名の中間奉公をしようと、名を伊助と改めて赤穂藩浅野家に仕える。 ある日伊助は、月岡十郎左衛門という侍のお伴を命じられるが、月岡は馬に乗るのが下手で、いつまで経っても前に進まない。そこで伊助は茶屋で少し休憩を取っていたが、その間に月岡の馬は泥をはねてしまい、泥が近くにいた別の侍にかかってしまう。これが原因で口論になり、月岡はその侍に切り殺されてしまう。 そこへ駆けつけた伊助は侍を倒して月岡の仇を討つ。これが評判になり伊助は士分に取り立てられ、名字も母方の前原を名乗るようになった。
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