前原市の直営のころ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 01:10 UTC 版)
1945年(昭和20年)、太平洋戦争の難を逃れた避難民が米軍の作戦の関係で、沖縄本島中部の具志川村(現うるま市)髙江洲、前原、塩屋から勝連村(現うるま市)の南風原のあたりに集められた。この一帯を中心に前原市が誕生した。人口凡そ一万人、これら住民の平静をとりもどし生活の安定をはかるのが、市の大きな課題であった。特に食糧の確保については、いつまでも米軍の配給物資にばかり頼るわけにいかないので、食糧の自給体制をたてる必要があり、その一環として、塩の製造を計画した。製塩については、泡瀬は地の利を得ているし特に戦前戦中を通じて、製塩を職業としていた泡瀬の人々が、髙江洲、前原あたりには多数おり、これらの人々の間でも泡瀬の製塩の復活を希望する声があり、市の事業として塩屋と泡瀬で塩の製造を始めた。当時泡瀬は飛行場内にあり、飛行機の駐留地(米軍泡瀬飛行場)になっていたため、飛行機の翼の下を通って通勤したものである。髙江洲、前原あたりに難を逃れた人々にとって、製塩を盛んにすれば、やがて泡瀬が解放になり、郷里に帰れる日も早かろうと、戦前の経験者はもとより、多くの人々が喜んで参加した。その頃の製塩は戦争のために荒れた塩田の一部を修理しながら、小型平釜式の三つの工場を作り共同で開始した。
※この「前原市の直営のころ」の解説は、「沖縄製塩」の解説の一部です。
「前原市の直営のころ」を含む「沖縄製塩」の記事については、「沖縄製塩」の概要を参照ください。
- 前原市の直営のころのページへのリンク