初期戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)
「ローマ包囲戦 (537年-538年)」の記事における「初期戦」の解説
ベリサリウスは少数の兵しか率いておらず、さらに、東ゴート軍主力部隊が東ローマ軍を大きく上回る兵力にまで膨れあがっていたため、続けてラヴェンナに向けて北進することは不可能だった。そのため東ローマ軍は北進をせずに、ローマ市内に駐屯し、予期せぬ襲撃に備えた。ベリサリウスは東ローマ軍本営をピンチョの丘(ローマ北部の近郊)に設置し、ローマの城壁を修復した。防御用の溝はより外側に掘り直し、サンタンジェロ城の防御性能を強化し、テヴェレ川をは鎖により封鎖した。この作業のために多くのローマ市民が徴用され、多くの物質(武器や兵糧)がローマ市内に貯蓄された。このために、ローマ市民は包囲戦を避けるためにベリサリウスに降伏したのにも関わらず、東ゴート軍によるローマ包囲は避けられないと理解し、東ローマに対する反感は日に日に増していった。 そんななか東ゴート軍はローマに向けて進軍し、東ローマ軍守備隊が放棄したPonte Salario 橋を無傷で通過した。 翌日、ベリサリウス率いる一隊がPonte Salario橋に差し掛かったところ、東ゴート軍が橋を要塞化して待ち構えているのを視認。ベリサリウスは自身の軍団に防御体制をとらせておらず、予期せぬ襲撃に両者は混戦になった。双方ともに多大な被害を被り、両者は撤退した。
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