冀州・幽州・張角軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:42 UTC 版)
184年4月、広陽の黄巾軍は幽州刺史の郭勲と、広陽太守の劉衛を攻め殺した。 6月、冀州にて黄巾軍に連戦連勝した盧植軍は、張角が広宗に籠城するとそれを包囲し攻め落とそうとした。盧植軍は終始優勢だったが派遣されてきた小黄門の左豊に賄賂を贈らなかったため、恨まれ讒言されて職を解かれてしまう。代わりに董卓が派遣されたが逆に黄巾軍に敗れた。 8月、霊帝は豫州を平定したあと兗州東郡において卜己軍を打ち破った皇甫嵩を冀州に派遣するよう命じた。 10月、皇甫嵩は広宗で黄巾軍を奇襲によって破り張梁を斬った。このときすでに張角は病死していたのでその遺体を引きずり出し晒した。さらに鉅鹿太守の郭典と共に、曲陽にて張宝を打ち破りこれを斬った。これにより指導者を失った黄巾軍は瓦解し、黄巾の乱は収束に向かう。
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