兼喜神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 06:40 UTC 版)
後に相久の無実を知った時久は、相久の御霊を若宮八幡として崇め神社を建立した。その後、慶長13年(1608年)霊八幡、明暦元年(1655年)兼喜明神、天和2年(1682年)正一位兼喜大明神と神号を替え、兼喜神社として現在に至っている。また、相久の弟で、庄内の乱の後、平佐(鹿児島県薩摩川内市平佐町)領主として別家を興した三久も、兄の御霊を祭るため兼喜神社を領内に勧請し崇拝した。
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兼喜神社(平佐)
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文禄4年(1595年)、都城から平佐(現:鹿児島県川内市)に移封された北郷三久は、非業の死を遂げた兄相久の生涯を憐れみ、その霊を鎮めるために、元和元年(1615年)、都城の若宮八幡の相久の御魂を勧請して、この地に若宮八幡を創建した。 当社は、兄相久と父時久及び歴代平佐北郷家領主の祖霊を祭神とし、後年には兼喜大明神さらに兼喜神社と改称されている。 第13代久信が、嘉永7年(1854年)、再興して以来既に130年を経た昭和59年(1984年)、平佐共有者の手によって修復された。神殿及び拝殿には多彩な彫刻が施され、建物とともに工匠の腕の冴えが偲ばれる。 列祭は毎年9月30日であり、祭典の後に正面の馬場において、流鏑馬が大正8年(1919年)頃まで行われていた。
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