八幡氏系図の景綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/07 14:56 UTC 版)
室町時代に八幡荘を支配した八幡氏は、先祖の一人に景綱を記す。それによると、景綱は八幡介景家の孫、同じく景俊の子で、母は保田頼資の娘という。八幡介弥次郎と名乗り、右馬助、従五位下、伊賀守。将軍久明親王に近侍して正応4年(1291年)2月に宮城郡と黒川郡の県令となり、徳治元年(1306年)4月28日に47歳で死んだ。早世の兄弟に松代丸と竹王丸がいた。 しかし、景綱の祖父が陸奥介景衡であることは前述の那須高頼との争論関係文書に明らかで、景衡が八幡荘を所領としていたことは他の史料からも裏付けられる。系図の景家は景衡と年代が重なるものの、事績は同一人と思われない。系図上の八幡介景綱は、南北朝時代に陸奥介にかわって八幡荘を支配するようになった八幡氏が、末松山八幡宮の鐘に刻まれた銘をみて自家の系図に挿入したものかと言う。
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