陸奥介景衡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 陸奥介景衡の意味・解説 

陸奥介景衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/02 03:55 UTC 版)

陸奥介 景衡(むつのすけ かげひら、生年不明 - 宝治2年(1248年))は、日本の鎌倉時代陸奥国八幡荘、現在の宮城県多賀城市の一部と仙台市の一部を領した鎌倉幕府御家人である。妻の下尼と娘鶴石、名の知れない息子がいた。

解説

景衡は史料によって実在が明らかな最初の陸奥介氏で、八幡荘を所領とした。寛喜2年(1230年)から活動が知られ、宝治2年(1248年)に没した。本人の活躍については不明で、所領の譲渡に関する複数の資料で挙げられる。奥州合戦とその後の関東武士の進出のせいで、平安時代からの土着武士がほとんど残らなかった奥羽地方において、陸奥介景衡は例外的に前代から生き残ったが、所領の縮小は余儀なくされた[1]

寛喜2年(1230年)に八幡荘のうち蒲生村を娘の鶴石に与え、それは20年後の建長2年(1250年)に夫の那須資長の手に渡った[2]。鶴石への譲り状を作ったのは「陸奥介平景実」で、確たる証拠はないものの、景衡と同一人物と推定されている[3]

次いで貞永元年(1232年)に八幡荘のうち萩園郷を飯高長経に譲った[4]

仁治元年(1240年)2月15日、同3年(1242年)3月2日、宝治2年(1248年)4月の一連の譲状によって、八幡荘のうち中野堤上本田1町、荒野4町、蕨壇荒野柑子袋藤木田3町の地頭職を陸奥介後家の下尼に与えた。景衡の死後、この譲渡は宝治2年12月29日(1249年1月)に将軍藤原頼嗣に承認された[5]

脚注

  1. ^ 『仙台市史』通史編2(古代中世)234-236頁。
  2. ^ 『仙台市史』通史編2(古代中世)234頁。『仙台市史』8巻(資料編1)21頁資料番号53「前出羽守藤原朝臣等連署施工状(大島正隆氏採訪白河文書)」。
  3. ^ 『多賀城市史』第1巻457頁。
  4. ^ 『仙台市史』通史編2(古代中世)234頁。『宮城県史』1(古代中世)211頁。『仙台市史』8巻(資料編1)21頁資料番号39「関東下知状(秋田藩採集文書20)」。
  5. ^ 『宮城県史』1(古代中世)210-211頁。『仙台市史』8巻(資料編1)21頁資料番号37「将軍家藤原頼嗣下文(結城小峰文書)」。『仙台市史』通史編2(古代中世)234頁には、仁治元年ではなく仁治2年とある。

参考文献

  • 仙台市史編纂委員会『仙台市史』第3巻(別編1)、仙台市役所、1950年。
  • 仙台市史編纂委員会『仙台市史』第8巻(資料編1)、仙台市役所、1953年。
  • 仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編2(古代中世)、仙台市、2000年。
  • 多賀城市史編纂委員会『多賀城市史』第1巻(原始・古代・中世)、多賀城市、1997年。
  • 宮城県史編纂委員会『宮城県史』1(古代・中世)、ぎょうせい、復刻版1987年。初版は宮城県史刊行会により1957年。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陸奥介景衡」の関連用語

陸奥介景衡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陸奥介景衡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陸奥介景衡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS