光太夫たちとの別れ
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寛政4年(1792年)5月20日、光太夫、磯吉、小市の3名は帰国するためにイルクーツクを出発した。まず午前10時に光太夫とキリール・ラクスマンの乗る馬車が先発し、夕方に磯吉と小市の乗る馬車が出発した。新蔵も馬に乗り、次の駅逓のあるブキンまで一行に加わった。 そして翌5月21日、光太夫を見送った新蔵はブキンで磯吉と小市を待った。別れの挨拶を済ませて、磯吉と小市の乗った馬車が走り出すと、新蔵はその馬車のことを馬に乗って追いかけた。『魯西亜国漂舶聞書』にはその時のことが、 「いつまでも際限のあらざれば、これよりはや帰り給ひと、両人たびたびすすむれども、せめて今少しとて別れ得ずして、二、三里程送りけるゆゑ、ぜひこれより帰り給ひと押し留めるにぞ。さらばこれより帰らむとて、互ひに馬より降りて暇乞ひするに、新蔵あつと声をあげて泣き出し、磯吉の肩にすがりて離れ得ず。両人もともに涙にむせびけり」 — 『魯西亜国漂舶聞書』 と記されている。 3人を見送った新蔵はイルクーツクに戻り、当地の日本語学校の教師の職と家を与えられ、銀貨40枚の俸給を受けるようになった。更にマリアンナとの間に男2人女1人の子供をもうけた。
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