元老院派の粛清
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紀元前43年10月、ボローニャにおいてオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる会談により第二回三頭政治が成立した。この同盟関係は、密約であったカエサル、ポンペイウス、クラッススが結んだ第一回三頭政治と異なり、公然としたものであった。彼らは国家再建三人委員会を開設し、カエサル暗殺者逮捕を名目に、元老院派の排除に乗り出した。その際、かつてのルキウス・コルネリウス・スッラのように、作成された名簿に基づいて元老院派と目された元老院議員約300人、騎士身分約2,000人が殺害、財産が没収されたといわれる。粛清リストにキケロの名があったため、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}盟友であったオクタウィアヌスは粛清の実行をためらっていたが、[要出典]アントニウスのキケロに対する憎悪は激しく、この大量粛清は非情に断行され、キケロも殺害された。こうして元老院派は、ギリシアで兵を集めていたマルクス・ブルトゥスとカッシウスを残すのみとなった。
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