保科 正俊とは? わかりやすく解説

保科正俊(ほしな まさとし) 1509~1592

甚四郎 弾正忠
◇父:保科正則 子:保科正直内藤源蔵昌月
 信濃高遠城主。1552年甲斐・武田氏仕える。武田氏滅亡後三河徳川氏仕えた武勇優れを得意としたことから、"槍弾正"と呼ばれた

保科正俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/14 05:51 UTC 版)

保科 正俊(ほしな まさとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将保科正直内藤昌月、保科正勝の父。通称は甚四郎[1]。官職は弾正忠[1]


注釈

  1. ^ 『戦国人名事典』では正俊の生年は永正6年(1509年)。

出典

  1. ^ a b c d e f 阿部、西村『戦国人名辞典』新人物往来社、1990年、688頁。 
  2. ^ 平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年、53頁。 
  3. ^ 平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年、106-111頁。 
  4. ^ 平山優「保科正俊」『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。 
  5. ^ a b c 平山優『天正壬午の乱 増補改訂版』戎光祥出版、2015年、210-215頁。 
  6. ^ 平山優『天正壬午の乱 増補改訂版』戎光祥出版、2015年、288-291頁。 
  7. ^ a b 平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』戎光祥出版、2011年、179-182頁。 


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保科正俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:53 UTC 版)

軍神ちゃんとよばないで」の記事における「保科正俊」の解説

武田軍家臣一人面頬着け武者

※この「保科正俊」の解説は、「軍神ちゃんとよばないで」の解説の一部です。
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