出自、武田氏家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 08:01 UTC 版)
父と共に甲斐武田氏に仕え、信濃国飯田方面を守備した。保科氏は伊那郡の高遠氏家臣であったが、正俊の頃に甲斐武田家の直臣となった。武田譜代家老の内藤昌秀は実子がなく、正俊の子で正直の実弟にあたる千次郎(内藤昌月)が養子に迎えられている。 天正3年(1575年)5月に武田勝頼率いる武田軍が長篠の戦いで大敗すると、8月10日付で勝頼から父・正俊に伊那郡防衛に関する指示が下され、正直は父と共に大島城を守備した。これが正直の史料上の初見である。
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