佐々木次郎太夫伊信の登場
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「還住 (青ヶ島)」の記事における「佐々木次郎太夫伊信の登場」の解説
青ヶ島への帰島実現が危ぶまれる状況下、文化14年(1817年)、佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主となった。次郎太夫は明和4年4月8日(1767年5月5日)に青ヶ島に生まれたと伝えられており、名主となったのは50歳のときであった。 名主となった次郎太夫はさっそく青ヶ島の見分を願い出た。見分願いの中で次郎太夫は、青ヶ島で生活した経験がある者は年老いてきており、八丈島で生まれた者のみで青ヶ島の復興を行うのは経験不足のために失敗する可能性が高くなることを指摘した。また、噴火後年月が経過していることから青ヶ島の復興は可能と判断している。そして5月に青ヶ島の現状について見分を行ったあと、次郎太夫は八丈島自体が食糧難に見舞われている現状では、青ヶ島島民の生活は大変に厳しい状態であること、かつての青ヶ島を知る人々が少なくなってきており、これ以上帰島を遅らせるのは経験や復興への意欲の面からも限界があること、そして見分の結果、土地は噴火前と変わりがない状態まで戻っていることを確認したため、青ヶ島の帰返(復興)の実現を要請した。
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