代用水の土木的特長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:38 UTC 版)
徳川家が関東に入って以来、代々にわたり武蔵国の河川土木普請を指揮していた伊奈家の手法は、関東流と呼ばれ、戦国期の甲斐国主武田信玄が築いたといわれる信玄堤を作り上げた甲州流に起源があるともいわれる。これに対し、井沢のとった手法は紀州流と呼ばれた。 井沢のとった紀州流の土木手法として、取水と排水の分離が大きな特徴として挙げられるが、見沼代用水でもこの特徴を見ることができる。見沼代用水では見沼跡の中央に、芝川が北に延長する形で作られている。これは、東西の用水路から取り込んだ水を芝川に排水するためである。 また、地形をうまく生かし台地と低地との境にある崖を天然の堤として利用し、工事量を減らす工夫も見られる。 見沼用水路は、水田等の灌漑目的であったが、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用であった。1730年に、新田の打ち出しに貢献があった鈴木家および高田家の願い出により、水運利用が許可された(参考:見沼通船)。しかし、用水路は江戸まで直接つながっていないため、代用水と芝川を結ぶ運河である見沼通船堀が、1731年にやはり井沢弥惣兵衛の手によって作られている。代用水と芝川との高度差は3メートルもあるため、パナマ運河と同じ閘門式運河で作られた。見沼通船堀は同方式で日本最古のものといわれている。
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