帝都電鉄モハ100形電車とは? わかりやすく解説

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帝都電鉄モハ100形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 00:06 UTC 版)

帝都電鉄モハ100形電車(ていとでんてつモハ100がたでんしゃ)は、現在の京王電鉄井の頭線の前身である帝都電鉄1933年昭和8年)の帝都線開業に際して製造した通勤形電車である。


注釈

  1. ^ 資料によっては4,174 mm[2][3]
  2. ^ 端子電圧750V時。
  3. ^ 渋谷 - 吉祥寺間の鉄道敷設免許は、元々1928年(昭和3年)1月に城西電気鉄道(同年7月に渋谷急行電鉄へ改称)が取得したものだったが、昭和恐慌の影響で資金難で着工できず、1929年(昭和4年)7月に利光の経営していた鬼怒川水力電気の子会社となった[6][7]
  4. ^ 井の頭公園 - 吉祥寺間は地元の希望で築堤化し、それに伴い吉祥寺駅の位置を移設したために工事が遅れた[8]
  5. ^ 合葉博治(1984)が自身の記事に引用している、『鉄道趣味誌』1934年9月号への松村の寄稿より[9]
  6. ^ 上段窓高さは340 mm、下段窓高さは540 mmでの幅は各40 mm。
  7. ^ もっともこの意匠は川崎車輌が1929年(昭和4年)に製造した吉野鉄道モハ201や、先に挙げた湘南デ1形、1931年に製造した淡路鉄道キハニ1形、それに本形式と同じ1933年に日本車輛製造と川崎が1両ずつ納品した小湊鉄道ジハ100形などでも採用されており、同時期の川車製私鉄向け車両の標準的な装備品であった。
  8. ^ 松村利は小豆色の塗料はデュコとセルバ(関西ペイントが開発した国産初のラッカー)の2種を使用したと証言している[12]
  9. ^ 端子電圧750 V時1時間定格出力105kW戦前の公称定格出力は125馬力(94 kW)とされるが、これは端子電圧を1割の電圧降下を見込んで675 Vとして計算した値とほぼ一致する。
  10. ^ 戦前の公称出力は75馬力(56 kW)。これはイングリッシュ・エレクトリック社製DK-31を、同社の日本におけるライセンス供与先である東洋電機製造でスケッチ生産した機種で、合併前の京王電軌が同等品をTDK-31-Nと称して標準電動機として多数採用していた。日本における電動機国産化の黎明期の製品であったためか、他の鉄道事業者での1時間定格出力は端子電圧600 V時56 kW/705 rpmなど、納入先によりその公称出力が52 - 63 kW前後と大きな相違があったことで知られる。
  11. ^ 開業当時は立派な車両に貧弱な線路設備を指して「線路費を呑んでしまった」と揶揄されていた[20]
  12. ^ その伝統は第二次世界大戦後、川崎車輌OK形台車として開花することとなる。
  13. ^ 最後まで残ったのは、5両編成化の際に1000系と編成を組んだサハ1303 - 1305。
  14. ^ a b モハ200は台車・主電動機の変更、軽量型空気圧縮機の採用でモハ100(自重38トン)より4トン減の34トンとなった[13]。しかし主電動機の出力40%減の影響は大きく、制御車と編成した場合にモハ100と同じ性能で走ることは困難だった。
  15. ^ 戦災を受けた旧帝都車を種車とするサハ1300形5両とクハ1257の合計6両は、就役当初は帝都モハ100形を前身とする車両も含めた全車がD-18を装着していた[4]が、1967年にデハ1400形など6両が京王線へ転用される際、その6両が装着していたK-3に履き替えている。
  16. ^ もっともこれは連結時に乗務員がコックの切り替えを失念して直通ブレーキのままで連結運転を行うなど、誤操作によるトラブルが頻発したことから、連結運転が増えた後年は直通ブレーキとしての機能を殺して自動空気ブレーキのみ機能するように変更されている。
  17. ^ 府立十中出身の山岸(1983)は、同級生で当時代田二丁目から帝都線で通学していた若林駿介(録音エンジニア・オーディオ評論家、日本音響家協会初代会長)が「(モハ200形は)足が遅くモーターのトラブルが多い」と述べていたと回想している[19]
  18. ^ そのため、小田原線のモハニ101形などと番号重複が発生していた。
  19. ^ 合併の時点で小田原急行では仮称モハ1000形の製作が進み、また先行してクハ601形の投入が1941年(昭和16年)から始まっていたが、これらは旧帝都車の後の1600番台形式が割り当てられた。
  20. ^ とはいえ、帝都電鉄由来の車両は深い鋼板屋根を採用したことが幸いし、木製屋根の車両のように全焼しても車体中央が垂れ下がることも比較的少なかった[25]ため、クハ1501以外は焼けた車体を用いて復旧している。
  21. ^ デハ1460形にD-18を供出して、代わりに元デハ1367の住友金属KS-31-L、元クハ1501のTR10を履いた。TR10は車体更新後も1967年の京王線転出までそのまま装着されている。
  22. ^ 東急デハ3450形が当時装備していた。
  23. ^ その後同車は解体されたが、前面の一部はクハ1560の事故復旧に使われた[24]。そのため1951年[24]と1952年[31]に撮影されたクハ1560の写真では、運転台下部に継ぎ目と叩き直しの跡が目立つが、1954年[26]と1956年に撮影された写真[32]では目立たなくなっている。
  24. ^ 小田急OBの生方良雄は、デハ1700形7両のうち2両は、本来小田原線用に割り当てる分を井の頭線向けに割り当てて追加製造したものとのメモを遺している[33]
  25. ^ デハ1710形を供出した京浜線には、デハ5400形10両を新造して投入した。
  26. ^ 山岸(1983)1944年12月と回想している[19]
  27. ^ 1943年12月[23][注釈 26]と1945年12月[27][34]に渋谷駅で乗り上げ事故を起こし、1回目の事故時に電装品と台車を一揃えでデハ1400形の予備品に[23][19]、2回目は損傷した制御器を目蒲線車両の予備品であるPB-200と交換していた[27][34]ため、性能上はデハ1401と同一。
  28. ^ これらは後の車体更新でデハ1401・1366がデハ3553・3554、クハ1553・1554がサハ3366・3365となった。この更新で余剰となった旧車体はデハ1366のものがデワ3041の鋼体化用に転用され1981年まで使用されたが、本系由来の3両のものはいずれも更新時に解体されている。詳細は東急3000系電車 (初代)#デハ1350形・デハ1400形・クハ1550形を参照。
  29. ^ これらはそれぞれ小田急デハ1501・クハ1551となった後、車体更新でデハ1914およびクハ1964となり、この更新で余剰となった旧車体は2両とも1960年デユニ1000形の車体更新に活用されている。詳細は小田急1500形電車を参照。
  30. ^ a b 開田(2019)は、台枠新造車よりも後の1952年10月としている[36][2]が、宮崎(2019)p.56[37]に、1951年8月に東急横浜製作所で落成直後を撮影した、同車の写真が掲載されている。
  31. ^ a b 開田(2019)は1952年2月としている[2]が出典不明。
  32. ^ 1951年8月26日の写真[24]ではD-18を履いているが、1952年6月の写真[31]ではK-3を履いている。
  33. ^ D-18を履いている1952年6月の写真と、「クハ1558」の車番でNSC-31を履いている写真が残っている[31][39]
  34. ^ デハ1751はペンシルベニア型台車と呼ばれるNSC-31を履いていたが、電動車用としては調子がよくなかったとされる[4]
  35. ^ これに伴い乗務員扉が車掌台側にも追加設置され、窓配置はd1D(1)3D(1)3D(1)dとなっている。
  36. ^ これは井の頭線へ戦後新製投入されたデハ1700・1710形の機器に合わせた仕様変更である。
  37. ^ これは京王帝都電鉄への移管後、各形式について順次実施されている。
  38. ^ 開田(2019)は1951年に構内での衝突事故から復旧する際、デハ1400形の被災車から捻出したK-3台車、芝浦SE-139B主電動機に交換[40]としているが、宮崎(2019)掲載の1948年頃に永福町検車区で撮影された写真で、既にK-3台車の特徴を持つ台車を装着していることがわかる[41]
  39. ^ a b c d e 京王はクハ1200形のサハ化時期について「1964年7月」としており、藤田(2014)[44]開田(2019)[2]宮下(2019)[45]はそちらに従っているが、当時の京王帝都電鉄の社員たちによる京王帝都レールファンクラブ(1967)は「1963年[46]としており、実際に彼らの記事には「1964年2月」に撮影されたサハ1204の写真が掲載されている。
  40. ^ 貫通路を埋めて非貫通3枚窓のスタイルに復元された。ただし再設置したヘッドライトはデハ1400形と同様の取り付け式に変わったほか、アンチクライマーも撤去されたままである[47]
  41. ^ 合葉・猪俣(1973)には「1973年11月8日現在」と書かれているが、掲載誌の発行日が1973年5月1日であること、同ページに掲載されている井の頭線の編成表は「1972年11月7日現在」であることから、誤植と考えられる。
  42. ^ なお、クハ1250形には本形式由来の1251 - 1257の他、デハ1760形1761・1762の電装解除により登場した1258・1259が存在する。この2両は他車と異なり渋谷向きに運転台が設置されていた。1969年にデハ1760形の残存車1763が1970年にクハ1251 - 1257が中間車化された際も運転台撤去はされずに残り、1980年に廃車となっている。
  43. ^ この際、デハ1800形1802・1803も電装解除と中間車化改造を実施された上で譲渡され、サハ510形511・512となっている。
  44. ^ 1971年の郵便輸送廃止で改形式。
  45. ^ 藤田のものと、実際に復旧作業に携わった斉藤(1983)が「完成日」としている日付とは1日程度前後しているものが多く存在するが、大きく違うもの以外は特記していない。
  46. ^ 斉藤(1983)は1946年9月30日[28]開田(2019)は1946年10月11日としている[2]。なお10月13日に永福町で撮影された写真[29]が存在する。
  47. ^ a b 開田(2019)は1948年3月1日としている[2]が出典不明。斉藤(1983)は1948年2月28日[28]としている。
  48. ^ 斉藤(1983)は1948年2月28日[28]としている。
  49. ^ 吉川文夫は1948年4月30日とのメモを残している[2]
  50. ^ 吉川文夫は1948年3月7日とのメモを残している[2]
  51. ^ 吉川文夫は1947年9月30日とのメモを残している[2]
  52. ^ 斉藤(1983)は1947年4月3日[28]としている。
  53. ^ 道村博のメモによれば1948年1月9日[2]斉藤(1983)は1948年1月10日[28]としている。
  54. ^ 斉藤(1983)は1946年9月30日[28]としている。
  55. ^ 斉藤(1983)は1946年11月30日[28]としている。
  56. ^ 道村博は1947年11月15日とのメモを残している[2]
  57. ^ 1965年当時、京王帝都電鉄の社員だった家里伸夫・道村博・中本雅博・永井信弘・合葉博治・出崎宏・高橋孝一郎・神村信夫の8名[51]

出典

  1. ^ a b 【RM LIBRARY 235】帝都電鉄(上) p.27
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 【RM LIBRARY 236】帝都電鉄(下) p.47
  3. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』422号(1983年9月号)吉川文夫「1400形一代記」 p.95
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  5. ^ a b c d e f 【RM LIBRARY 235】帝都電鉄(上) p.36
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  13. ^ a b c 『鉄道ファン』279号(1984年7月号)合葉博治「井の頭線 グリーン車たちの源流 帝都線の電車」 p.96
  14. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』422号(1983年9月号)吉川文夫「1400形一代記」 p.93-94
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  16. ^ a b 【RM LIBRARY 235】帝都電鉄(上) p.38
  17. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』422号(1983年9月号)吉川文夫「1400形一代記」 p.94
  18. ^ a b 【RM LIBRARY 235】帝都電鉄(上) p.18
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  20. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル』422号(1983年9月号)合葉博治「車両形態の変遷 -京王線70年・井の頭線50年の流れをたどる-」 p.80
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  23. ^ a b c d 【RM LIBRARY 235】帝都電鉄(上) p.47
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  29. ^ a b c d 【RM LIBRARY 236】帝都電鉄(下) p.13
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  38. ^ a b 宮崎繁幹・山下和幸編『京王帝都電鉄電車回顧 第1巻』 p.21
  39. ^ a b 【RM LIBRARY 236】帝都電鉄(下) p.23
  40. ^ a b 【RM LIBRARY 236】帝都電鉄(下) p.22-23
  41. ^ a b 宮崎繁幹・山下和幸編『京王帝都電鉄電車回顧 第1巻』 p.40
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  43. ^ a b 【RM LIBRARY 236】帝都電鉄(下) p.42
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  45. ^ a b 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』(2019) p.124-125
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  47. ^ a b c 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』 p.73
  48. ^ a b c 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』 p.79
  49. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』278号(1973年5月号)合葉博治・猪俣剛「私鉄車両めぐり(97) 京王帝都電鉄」 p.63
  50. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』278号(1973年5月号)合葉博治・猪俣剛「私鉄車両めぐり(97) 京王帝都電鉄」 p.70-72 旅客車一覧表(1973年2月28日現在)
  51. ^ a b 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 「読者短信に見る京王電鉄の記録」 p.104


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