井上裕義
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井上 裕義(いのうえ ひろよし、1958年〈昭和33年〉1月1日[要出典] - )は、日本の画家。公益社団法人二科会 会員・審査員、日本美術家連盟会員。
略歴
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幼少期から高校生時代
1958年(昭和33年)1月1日、大阪市に生まれる。幼稚園の頃から絵を描くことに興味を持ち、当時流行っていたテレビ番組に登場する怪獣やロボットを夢中で描く。その様子を見た両親が絵の才能があるかもしれないと絵を学ばせる。小・中学生時代から、将来画家になることを目指し、高校3年生の1975年(昭和50年)二科会理事・松井正に師事し、松井が勤めていた大阪芸術大学を受験することを決めた。
1976年(昭和51年)
- 4月、大阪芸術大学美術科に入学する。入学後も師事していた松井正には、「絵画だけではなく、絵筆や道具を大切に扱うことまでご指導いただきました」語述べていた。2005年から運営を始めた絵画教室(アートファクトリー蒲生絵画教室教室)の生徒たちにも道具を大切にすることは、絵を描く姿勢の基本であると教えている。学生時代、自身の絵は下手だと何度も挫折しそうになりるが、大阪芸術大学美術科の卒業後に二科展へ出展し、初入選する。
1978年(昭和53年)
- 京都市美術館で初めてグループ展を開催する。
1980年(昭和55年)
- 4月、大阪芸術大学美術科を卒業する。
- 4月、アパレル会社のイトキン株式会社に入社する。
1990年(平成2年)
- 4月、イトキン株式会社を退社する。
- かばんメーカーのエース株式会社に入社する。
- 平日は会社員として勤務しながら、週末は実家でアトリエを兼ねた絵画教室を開き、自身の創作活動を積極的に続けながら二科展やコンクールに出展。絵が上手くなりたいと空いている時間とにかく描いて描いて描き続けた。しかし当時の美術界は抽象が主流で、リアリズム絵画を描く井上は賞が取れない期間が10年近く続いたが、ひたすらに絵を描き続けた結果、40代で二科会会員に推挙された。会社員・絵画教室講師・画家の三足の草鞋(わらじ)の生活は辛かったが、「続けることが力になりますから。」と語る。勤務していた会社を退職後、画家活動と絵画教室に専念する。
1997年(平成9年)
- 春季二科展招待出品する。
1998年(平成10年)
- 二科会会友推挙。
2005年(平成17年)
- 4月、エース株式会社を退社。
- アートファクトリー蒲生絵画教室の運営を始める。
2006年(平成18年)
- 二科会会員推挙。
2012年(平成24年)
- アジア文化顕彰。
2014年(平成26年)から現在
- 公益社団法人二科会会員(審査員)であり日本美術家連盟会員である。
賞歴
- 1980年(昭和55年) - 二科展初入選
- 1993年(平成5年) - 関西二科奨励賞受賞
- 1994年(平成6年) - 二科会大阪市賞受賞
- 1996年(平成8年) - 二科会特選受賞
- 2004年(平成16年) - 二科会会友賞受賞
- 2013年(平成25年) - 日本美術評論家大賞
- 2014年(平成26年) - 二科展会員賞
エピソード
- ダンス仲間からマイティと呼ばれており、長年の間あだ名の理由が不明であったが、友人の井上岳人がフェイスブックの投稿欄に「マイティってもしかしてプロレスラーのマイティ井上から来てるんですか?」とコメントし、井上裕義本人から「よく分かりましたね」と正解の返事が来たため広く知れ渡った。
脚注
出典
外部リンク
- 井上裕義のページへのリンク