二階堂トクヨとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 09:43 UTC 版)
智恵子は後に「女子体育の母」と呼ばれる二階堂トクヨと親しい関係にあった。智恵子とトクヨの出会いは1899年(明治32年)のことで、智恵子の在籍していた油井尋常高等小学校にトクヨが赴任したことがきっかけである。智恵子は妹のミツの担任であったトクヨに親しみを抱き、下宿を訪ねたり、一緒に安達ケ原を散歩したり、トクヨに話を聞かせてもらったりと慕っていた。トクヨの油井小勤務は1年で終わり東京女子高等師範学校に進学したが、その年の9月頃に、(担任をしたミツのクラス宛ではなく)智恵子のいた高等科の女子児童に向けて手紙を送っている。智恵子は自分の写真をトクヨに贈り、学費の援助までしていたという。 トクヨのイギリス留学の時には、高村光太郎を伴って横浜港まで見送りに行き、留学中には「長沼家」名義で紋付を贈っている。見送り時、智恵子と光太郎は結婚前である。 その後、精神分裂症を発して入院した時に、トクヨは見舞いに行った。その時の智恵子の症状はまだ軽かったが、トクヨを見た智恵子は後ろを向いてしまった。トクヨは椅子に座り、2人は黙ったまま同じ姿勢を取り続け、30分ほどたってからトクヨは無言で立ち去った。お互いのわがままさを示すエピソードであるとともに、そうしたわがままを許し合える関係だったことが分かるエピソードである。智恵子はトクヨより先に亡くなったが、トクヨが智恵子の死に何を思ったかは記録に残されていない。
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