久見崎の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 08:49 UTC 版)
久見崎という地名は室町時代より見え薩摩国のうちであった。資料としての初見は平安時代の仁寿3年(853年)の「日本文徳天皇実録」に「薩摩国孝女挹前(クムサキ)福依売」と記載されており、「挹前」は久見崎のこととされている。文禄4年(1595年)の所領替えの際に久見崎は祁答院地方に入部した北郷氏の所領となった。その後慶長6年(1601年)頃には北郷氏が日向都城(現在の宮崎県都城市)に復帰したため、以降久見崎は島津氏の直轄領となった。 久見崎は対岸の京泊と共に川内川河口の入江となっており、天然の良港を形成していた。そのことから久見崎は島津氏の軍港的性格を持つようになった。久見崎の港からは慶長2年(1597年)に文禄・慶長の役に出兵する島津義弘ら薩摩軍が出帆したほか、慶長18年(1613年)には人質として差し出された島津義弘の娘と孫娘が江戸に向け出港している。
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