久保田米斎とは? わかりやすく解説

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久保田米斎

読み方くぼた べいさい

画家舞台美術家京都生。米僊の長男。名は米太郎、のち満明、別号に世音・皿彩・錦竹舎・米所等。画を父及び橋本雅邦に、詩文石川鴻斎に学ぶ。舞台装置指導衣裳考証にあたり活躍した昭和12年(1937)歿、63才。

久保田米斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/10 22:07 UTC 版)

久保田 米斎(くぼた べいさい、明治7年(1874年8月18日昭和12年(1937年2月14日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家

来歴

明治7年8月18日、日本画家の久保田米僊の長男として京都府に生まれる。通称は米太郎。世音、米斎、満明、米所などと号した。国民新聞記者となった父とともに上京、始めは原田直次郎に師事して西洋画を学んだ後、橋本雅邦について日本画を習得した。

明治29年(1896年)に日本絵画協会が設立されると実弟の金僊とともにこれに参加、同年の第1回絵画共進会(第3部)に「心機一転」を出品すると二等褒状を受け、明治30年(1897年)春の第2回絵画共進会に「道元和尚」を出品、同年秋の第3回絵画共進会に「晩秋の池」、「稚足媛」を出品、後者が二等褒状を受ける。明治31年(1898年)春の第4回絵画共進会にも「佐保姫」を出品している。その一方、明治29年設立の巽画会、明治31年創立の日本画会にも関係した。また米斎は多趣味な風流人で、演劇浮世絵などの造詣も深く松竹に入社、舞台装置家としても活躍している。各デパートの呉服部の衣装図案を担当しており、晩年には荏原区中延の自邸に故実研究所を設立、研究を続けた。昭和12年2月14日、64歳で没した。

作品

  • 旅順」 絹本著色 六曲一隻押絵貼屏風のうち1面 172.5x84.8cm 豊川稲荷1905年(明治38年) - 徳富蘆花ベストセラー不如帰』の5つの場面を、5人の画家が絵画化したもの(第1扇は山岸荷葉による題字)。米斎は第4扇の川島武男が日清戦争で義父の危機を救う場面を担当。元は本郷座による舞台化の際に制作された絵看板だったが、後に本郷座座主・阪田庄太が屏風に仕立て豊川稲荷に奉納された[1]

脚注

  1. ^ 佐野美術館編集・発行 『追憶の美人 日本画家 鏑木清方』 2014年4月5日、pp.12-13,85。

参考文献

  • 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史』一巻上(図版編) 日本美術院、1989年


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