中村春堂とは? わかりやすく解説

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中村春堂

読み方なかむら しゅんどう

書家。福岡県生。漢学者中村芳平の子。名は梅太郎別号に耕心斎がある。はじめ父の指導で書を学ぶが、才筆宮中顧問官三浦安認められすすめられ小野堂の門に入った。寒香書道院をおこし門人養成努め堂流の継承者として重きをなした。昭和35年1960)歿、93才。

中村春堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 19:59 UTC 版)

中村 春堂(なかむら しゅんどう、1868年慶応4年)7月3日 - 1960年昭和35年)3月14日(享年93歳)は、日本能書家。漢学者中村芳平の子。仲津郡祓郷村大字田中(現在の福岡県京都郡みやこ町田中出身。名は尚友、字は玄郷、通称を楳太郎(梅太郎)、雅号を春堂または耕心斉と称した。

略歴

旧制豊津中学校(豊津高校→現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、大分県中津町の河野私塾に学んだ後、郷里で初等教育に従事していたが、1896年明治29年)に上京。法制局長官末松謙澄(現行橋市出身)の推薦により内閣法典調査会に奉職した。勤務のかたわら専修学校(現専修大学)に入学して、法律学経済学を学んだ。 春堂の能筆(字が上手いこと)は宮中顧問官で法典調査部長の三浦安氏の認めるところとなり、もっぱら書道の研究に従うことを勧められ、書道をもって世に立つことを決意した。

1898年(明治31年)、小野鵞堂に入門、翌年には難関の文部省習字科検定試験に合格し、書道家としての道を歩み始めた。

1901年(明治34年)、日本女子大学校(現日本女子大学)の書道教授となったのを皮切りに、数多くの高等学校・大学で教鞭をとるとともに、私塾寒香書院を設立し、門人の育成をはかった。30年間にわたる門人は三千余名、その間揮毫された出版物は三十余種に及んだ。

1924年大正13年)、日本芸術協会審査員、1929年昭和4年)、泰東書道院総務審査員、同21年日本書道美術院顧問審査員、同4年 毎日展審査員、同26年日本書道連盟顧問、同27年日展審査員などを歴任、明治・大正・昭和の三代にわたり書道界、特に書道教育に尽くした功績は大きい。春堂は仮名文字を得意としたが、調和体(漢字とかなが調和した優美な書風)の素養もあり、その流麗な書風は、天性の才能のみならず、長年にわたる不断の努力によって得られたものである。 ※書道展参照。



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