上田武司_(競馬)とは? わかりやすく解説

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上田武司 (競馬)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/08 18:21 UTC 版)

左端が上田武司、右端は上田三千夫
(1953年日本経済新春杯表彰式)

上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日[1] - 1979年2月13日[1])は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。

来歴

1909年福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる[1]

1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する[1]

1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する[1]

1942年、騎手を引退。騎手成績1066戦160勝[1]

1946年、調教師免許を取得[2]

1951年10月14日、チャレンジカップサチホマレで重賞初制覇[1]

1954年4月18日、皐月賞ダイナナホウシユウで勝利しクラシック競走初制覇[2]

1962年から1963年・1966年・1968年から1976年に日本調教師会関西本部長を務める[2]

1962年8月19日、小倉競馬第2競走で管理馬9頭を出走させ(17頭立て)、1〜5着を独占した(JRAの一競走最多出走厩舎記録)[2]

1964年、62勝を挙げ、関西リーディング調教師となる(全国2位)[2]

1979年2月13日、急性心不全のため死去。69歳没[2]。調教師成績7450戦1071勝(重賞40勝)[3]

人物

ものを言わない口数の少ない人物で、弟子の中島敏文の結婚式の際に、「挨拶をさせられるなら出席しない」といったという[1]

1959年ごろからの厩務員組合との労使交渉をスムーズにまとめた。調教師の布施正は「頭がよく、人の意見に耳を傾け、部下を使うのがうまかった」としている[2]

主な管理馬

主な厩舎所属者

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

参考文献

  • 優駿』2010年5月号 江面弘也「続・名調教師列伝 第3回 上田武司」

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 『優駿』2010年5月号、121頁。 
  2. ^ a b c d e f g 『優駿』2010年5月号、122頁。 
  3. ^ 『優駿』2010年5月号、123頁。 

関連項目




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