三沢光晴体制
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馬場元子との軋轢 1999年1月31日、馬場が肝不全のため61歳で死去した。5月7日、三沢が社長に就任し、馬場存命中には行わなかったビッグマッチでの大胆なカード編成を試みた。また三沢、仲田龍らは新日本などで行われていた花道やレーザー光線などを使った華やかな演出を提案し続けた。だが、伝統の保持を第一優先と主張する馬場夫人である馬場元子との軋轢が生じ、三沢は社長を解任された。その結果、元子夫人と馬場の姪でもある馬場幸子、渕正信を除く全役員が辞任した。 三沢光晴を含めた所属選手の大量離脱 ところが社長解任後、三沢を含めた選手26名、練習生1名、大半の職員が全日本を離脱してプロレスリング・ノアを設立した(詳しくは、「三沢光晴の経歴」を参照のこと。)。その後、日本テレビは全日本プロレス中継を終了し、所持していた全日本プロレスの株式も手放すこととなった。放送枠は、「コロッセオ」を経て「プロレスリング・ノア中継」に切り替えた。
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