ヴァイキング司教区と初期の司教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:59 UTC 版)
「ダブリン大主教」の記事における「ヴァイキング司教区と初期の司教」の解説
ダブリンは9世紀頃からヴァイキングがダブリン王国を築いていたが、11世紀、クリスチャンであったシトリック・シルケンベアード(英語版)は彼ら独自の司教を得ようとし、1028年にはローマを訪れている。彼は候補者としてドナート(Donat、もしくはドナー、ドナトゥスと呼ばれる人物)を選び1038年にカンタベリーにおいて聖別を行わせた。そして新しく誕生したこの上級聖職者は市壁に守られた小さな領域をダブリン司教区としてその運営をはじめ、亡くなる1074年までその指揮を行った。ダブリン司教はカンタベリー大司教に従い、アイルランド教会の会議には参加しなかった。また、シトリックはクライストチャーチ大聖堂を1038年に建設し、バルドイル(英語版)、ラセニー(英語版)、ポートレーン(英語版)の土地を与えた。 2人目のダブリン司教はパトリック(Gilla Pátraicとも。1074-84)という、ロンドンの聖ポール教会で聖別された人物であった。続いてカンタベリーで聖別を受けたドナート・オハイングリ(Donat O'Haingly. Donngus Ua hAingliu. 1085-1095)、ついで彼の甥でありウィンチェスターの聖アンセルム教会で聖別を受けたサミュエル・オハイングリ(Samuel O'Haingly. Samuel Ua hAingliuとも。1096-1121)がダブリン司教になった。 1111年、リムリック司教(英語版)ギルバート(Gillebertとも)によるラスブレアセイルの教会会議(英語版)において、アイルランドの司教区は24に固定することが決定したが、この数にはダブリンは含まれていなかった。ヴァイキング司教が続いていることを除けばグレンダーロッホ司教区の中にあること、いまだカンタベリーに付随していることなどが言及されたという。1121年からは、5番目の、そして最後のダブリン司教であるグレゴリー(Gréneとも)が司教となった。彼はカンタベリー大司教ラルフ(英語版)に聖別された人物である。
※この「ヴァイキング司教区と初期の司教」の解説は、「ダブリン大主教」の解説の一部です。
「ヴァイキング司教区と初期の司教」を含む「ダブリン大主教」の記事については、「ダブリン大主教」の概要を参照ください。
- ヴァイキング司教区と初期の司教のページへのリンク