ロータス・フォートの使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 11:47 UTC 版)
「ロータス・フォート」の記事における「ロータス・フォートの使用」の解説
シェール・シャーは、ロータス・フォートが完成する前に死亡し、彼の没後10年経過するとスール朝は滅亡した。フマーユーンが15年の海外生活を終え、インドに戻り、ムガル帝国を再興した。フマーユーンがインドに帰国するとロータスを塔していたタタール・ハーン・カースィーはロータス・フォートから逃亡した。 ロータス・フォートの軍事的性格のため、ムガル皇帝の間では、この城塞は不人気であった。アクバルのロータス・フォートの滞在は1日のみだけであり、ジャハーンギールは、カシミールへ移動する際に泊まった。また、ジャハーンギールは、マハバット・ハーン(英語版)によって、カーブルが危機に晒された時に、再度滞在した。ジャハーン・ギールの妻ヌール・ジャハーンはラホールから軍隊を引き連れ、マハバット・ハーンに、ジャハーン・ギールを解放するように命令した。ジャハーンギールは、ロータス・フォートに軍隊を進め、しばらくの間、ロータス・フォートは、王宮の役割を果たした。その後、ジャハーンギールは、カシミールを経た後ラホールへ戻り、そこで死亡している。 ジャハーンギール以降のムガル皇帝の城塞の使用はほとんど皆無である。というのも、ムガル帝国とガーカル部族との間で同盟関係が締結されたため、ロータス・フォートに軍隊を駐留させる必要性がなくなったためである。 パシュトゥーン系のドゥッラーニー部族連合は、ロータス・フォートの重要性を熟知しており、彼らは、ドゥッラーニー朝の首都カーブルとの連絡のために、この城塞を使用した。 ドゥッラーニー朝が滅亡したのち、シク王国が、この地方を支配した。シク王国の藩王ランジート・シンがロータス・フォートに駐屯したのは、シク王国の将軍ハリ・シン・ナルワー(英語版)がジャムルード(英語版)(現在のパキスタンのトライバル・エリアの都市)でアクバル・ハーン(英語版)を中心とするパシュトゥーン人の手によって殺害された報を聞いた時である。
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