ルイジ・セグレ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/13 05:33 UTC 版)
「カロッツェリア・ギア」の記事における「ルイジ・セグレ時代」の解説
1953年、カーデザイナーのルイジ・セグレ(Luigi Segre)が入社してくる共に、フォード・モーター社(リンカーン・フューツラ:Lincoln Futura コンセプトカー)、フォルクスワーゲン社(カルマンギア)やボルボ社(ボルボ・P1800)といった海外の企業から多くのデザインを受注した。 1953年にボアノがフィアット社へ去ると工場はアゴスティノ・ダ・モンテフェルトロ通り(via Agostino da Montefeltro)に移り、ルイジ・セグレがギア社を買い取った。その後ギア社はコーチビルダーであるピエトロ・フルアの会社を買収し、フルアをルノー・フロリード(Renault Floride)をデザインしたギア・デザイン(Ghia Design)(1957年 - 1960年)のトップに据えた。 ルイジ・セグレ率いるギア社とクライスラー社のデザイナーであるヴァージル・エクスナー(Virgil Exner)との密接なパートナー関係は、セグレ在籍期間よりはじまりセグレ死後の後も15年にわたり続くこととなる。その協力関係は18台のクライスラー・ギア(Chrysler Ghia)の特製モデル(1951年 - 1953年)、K-310、クライスラー・ノーズマン(Chrysler Norseman)、クラウン インペリアル・リムジン(ジャクリーン・ケネディ・オナシス、ネルソン・ロックフェラー等の著名人が所有した)、等々に結実した。その中にはギア社製ボディを架装した数台のフェラーリすらあった。また、ギア社は短命に終わったデュアル=ギア(Dual-Ghia)事業にも参画している。総じてギア社の生産数は常に極僅かであり、この生産数が他のイタリアのコーチビルダーの車よりも希少価値を高めていた。
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