リッチ・キッズからニューロマンティック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 13:51 UTC 版)
「ミッジ・ユーロ」の記事における「リッチ・キッズからニューロマンティック」の解説
スリックで創られたティーニー・ポッパー的なイメージから脱却を考えていたユーロは、セックス・ピストルズを脱退した二人、グレン・マトロックとスティーヴ・ニューらが結成したリッチ・キッズに誘われ、ロンドンでリハーサルを行うが不調に終わり、スコットランドに帰る。ユーロは再びスリックに戻るが、スリックのレコード契約が切れるとともに、1977年、リッチ・キッズに参加する。1978年1月、デビューシングル「リッチ・キッズ」(全英24位)をリリース。同年8月に『王子の幻影(en:Ghosts Of Princes In Towers)』(全英51位)をリリースする。しかし、ユーロとラスティ・イーガン(ドラムス)は、ニューロマンティックの発端であるスティーヴ・ストレンジに接近し、その音楽面のプロデュースするなど、パンク寄りのロックを好む他の二人との音楽的方向性の亀裂は深まり、1978年12月にバンドは活動停止となる(正式な解散表明は1979年6月)。 1979年、ユーロはスティーヴ・ストレンジのバンド・ヴィサージの音楽的プロデュースと、そのバンドメンバーとして活動を始め、同じくヴィサージのメンバーでありウルトラヴォックスのキーボーディスト、ビリー・カーリーの誘いで、1979年4月、ウルトラヴォックスにボーカルとギターで参加する。 またこの時期、シン・リジィのツアー途中で失踪したゲイリー・ムーアの代役として、旧知のフィル・ライノットに呼ばれ、日本公演を含む残りのツアーに参加した。続く1980年のツアーにもキーボード担当として客演した。
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