モティア包囲戦:第一段階
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:16 UTC 版)
「モティア包囲戦」の記事における「モティア包囲戦:第一段階」の解説
ディオニュシオスとその陸軍は、シケリアの南岸に沿って西方に進軍した。それに伴ってカルタゴ支配下にあったギリシア人都市は反乱し、居住していたカルタゴ人を殺してその財産を奪い、兵を送ってディオニュシオスに合流した。シケル人、シカニ人およびメッセネもまた兵を送ったため、モティアに到着した際にはディオニュシオスの軍は歩兵80,000、騎兵3,000にまで膨れ上がっていた。彼の弟であるレプティネス(en)が指揮する海軍が、モティアを海上封鎖し、彼自身はエリュクス(現在のエリーチェ)に向かい、そこを降伏させた。テルマエ(現在のテルミニ・イメレーゼ)もディオニュシオス側につき、カルタゴ側に残ったシケリアの都市は、モティア以外はパノルムス(現在のパレルモ)、ソルス(現在のサンタ・フラーヴィアのソルントゥム遺跡)、アンキラエ、セゲスタ(現在のセジェスタ)およびエンテラ(現在のパレルモ県コンテッサ・エンテッリーナ)のみとなった。ディオニュシオスはパノルムス、ソルス、アンキラエの周辺を襲撃し、続いてセゲスタとエンテラを包囲した。しかし、これらの都市はディオニュシオスの攻撃を撃退し、ディオニュシオス自身もモティアの包囲の進捗を確認するためにモティアに戻った。モティアが占領されれば、残りの都市も降伏すると考えられたためであった。
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