メルバーン子爵への寵愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)
「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「メルバーン子爵への寵愛」の解説
首相メルバーン子爵はホイッグ党の所属だが、本質的には貴族主義・保守主義者だった。一方で機会主義者でもあったので内心選挙権拡大に反対の立場ながらグレイ伯爵内閣の第一次選挙法改正に内務大臣として協力した人物だった。 彼は前王ウィリアム4世との関係は悪かったが、シュトックマー男爵がメルバーン子爵の良い評判をヴィクトリアに聞かせていたため、ヴィクトリアからは早々に気に入られることとなった。 メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書になっていった。彼の洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まなかった。二人は毎日6時間は額を突き合わせて過ごしたといい、君臣の関係を越えて、まるで父娘のような関係になっていった。女王の日記にも毎日のように「メルバーン卿」「M卿」の名前が登場するようになる。ヴィクトリアがはじめて貴族院に出席して議会開会宣言を行なった日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる。」と書いている。 しかし、ホイッグ党を離党していたスタンリー卿(後の第14代ダービー伯爵)らダービー派が1839年春に保守党に合流し、またこれまでメルバーン子爵を支持してきた急進派やオコンネル派もメルバーン子爵が新たな改革を行おうとしないことに不満を強めたことで、メルバーン子爵は議会において苦しい立場に立たされるようになった。 1839年5月初めにメルバーン子爵が議会に提出した英領ジャマイカの奴隷制度廃止法案は庶民院を通過したものの、わずか5票差という僅差であったため、メルバーン子爵は自らの求心力の低下を悟り、5月7日にヴィクトリアに辞表を提出した。ヴィクトリアの衝撃は大きく、泣き崩れたという。
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