マロツィアをめぐる教皇たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/11 22:02 UTC 版)
「ポルノクラシー」の記事における「マロツィアをめぐる教皇たち」の解説
セルギウス3世は、897年に教皇位をヨハネス9世(第116代教皇、在位:898年 - 900年)と争って敗れ、アルベリーコ1世のもとに身を寄せていた。ローマは当時フォルモスス(第111代教皇、在位:891年 - 896年)の政策の評価などを争点に、教皇の廃立が繰り返される激しい政争の渦中にあったが、セルギウス3世はアルベリーコ1世の支援を受けてローマに戻り、904年に教皇に登位した。この過程で前教皇レオ5世(第118代教皇、在位:903年)を獄中で殺害し、反対派に対抗するためテオフュラクトゥス家と結んだ。 914年にヨハネス10世が教皇に登位したが、これにはテオフィラクトとテオドラの支持があった。しかし、ヨハネス10世はイタリア王ウーゴ(アルルのフゴ)に接近し、ローマ貴族と距離を置きはじめた。一方マロツィアの夫であるアルベリーコ1世は、ローマで専制的な支配を行ったが、925年頃に市民に殺害されたという。マロツィアはトスカーナ侯グイード(グイスカルドゥス。ウーゴの異父弟)と接近するが、グイードとの再婚をめぐってヨハネス10世と対立した。マロツィアは教皇ヨハネス10世の殺害を命じたと疑われている(928年に逮捕され獄死)。マロツィアはグイードと再婚するが、先立たれる。 931年に、マロツィアの子であるヨハネス11世が教皇に登位する。932年、マロツィアとイタリア王ウーゴが結婚式を挙げるが、マロツィアの息子のスポレート公アルベリーコ2世はこの結婚式を襲撃した。マロツィアはサンタンジェロ城に幽閉され、のちに獄死する。ヨハネス11世もまたラテラノ宮殿に監禁され、囚われのまま死去した。 マロツィアの失墜によって、女性が教皇庁を支配する時代は終わった。しかし、トゥスクルム家による教皇庁支配はアルベリーコ2世によって受け継がれた。
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