マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 01:29 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動| マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア Maria Beatrice di Savoia  | 
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| モデナ公妃 | |
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| 在位 | 1814年7月14日 - 1840年9月15日 | 
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| 出生 |  1792年12月6日 | 
   
| 死去 |  1840年9月15日(47歳没) | 
   
| 埋葬 |   | 
   
| 結婚 | 1812年6月20日 | 
| 配偶者 | モデナ公フランチェスコ4世 | 
| 子女 |  マリーア・テレーザ フランチェスコ5世 フェルディナンド・カルロ マリーア・ベアトリーチェ  | 
   
| 家名 | サヴォイア家 | 
| 父親 | サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 | 
| 母親 | マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ | 
マリーア・ベアトリーチェ・ヴィットーリア・ジュゼッピーナ・ディ・サヴォイア(Maria Beatrice Vittoria Giuseppina di Savoia, 1792年12月6日 - 1840年9月15日)は、モデナ公フランチェスコ4世の妃。
生涯
サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世と王妃マリーア・テレーザの長女として生まれた。1812年6月20日、母方の叔父にあたるオーストリア=エステ大公フランチェスコと結婚した。2人は非常に近い血縁であったため、ローマ教皇ピウス7世から結婚の際に特免状が出された。フランチェスコは1814年7月14日、モデナ・レッジョ及びミランドラの支配者となった。2人には4子が生まれた。
- マリーア・テレーザ(1817年 - 1886年) - シャンボール伯アンリの妻
 - フランチェスコ5世(1819年 - 1875年) - モデナ公
 - フェルディナンド・カルロ(1821年 - 1849年)
 - マリーア・ベアトリーチェ(1824年 - 1906年) - モンティソン伯フアンの妻
 
1824年1月10日の父ヴィットーリオ・エマヌエーレの死にともない、長女マリーア・ベアトリーチェがジャコバイトの主張するところの「イングランド女王メアリー3世およびスコットランド女王メアリー2世」となった。当然ながら、父と同様にマリーア・ベアトリーチェも現実味のない王位請求を行わなかった。
1840年9月15日、マリーア・ベアトリーチェは心臓疾患が原因で死んだ。
     
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固有名詞の分類
| サヴォイア家 | 
ヘンリエッテ・アーデルハイト・フォン・ザヴォイエン ジョヴァンナ・ディ・サヴォイア マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア マリア・アンナ・フォン・ザヴォイエン ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア | 
| モデナ公妃 | 
ヴィルジニア・デ・メディチ ルクレツィア・ボルジア マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア ルネ・ド・フランス シャルロッテ・フェリーツィタス・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク | 
| ジャコバイト王位請求者 | 
マリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア チャールズ・エドワード・ステュアート フランツ・フォン・バイエルン ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世 ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート | 
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