マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=エステ_(1849-1919)とは? わかりやすく解説

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マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=エステ (1849-1919)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/13 02:31 UTC 版)

マリア・テレジア・
フォン・エスターライヒ=エステ
Maria Theresia von Österreich-Este
バイエルン王妃
在位 1913年11月5日1918年11月7日

全名 Maria Theresia Henrietta Dorothea
マリア・テレジア・ヘンリエッタ・ドロテーア
出生 (1849-07-02) 1849年7月2日
オーストリア帝国 ブルノ
死去 (1919-02-03) 1919年2月3日(69歳没)
ドイツ国 バイエルン州 キームガウ
配偶者 バイエルン王ルートヴィヒ3世
子女 一覧参照
家名 オーストリア=エステ家
父親 オーストリア=エステ大公フェルディナント・カール
母親 エリーザベト・フランツィスカ・フォン・エスターライヒ
宗教 カトリック教会
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マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=エステドイツ語: Maria Theresia von Österreich-Este, 1849年7月2日 - 1919年2月3日)は、モデナ公国の公女。オーストリア=エステ大公女。オーストリア=エステ大公フェルディナント・カールとその妃エリーザベト・フランツィスカの長女で、バイエルン王ルートヴィヒ3世の王妃となった。全名はマリア・テレジア・ヘンリエッタ・ドロテーアMaria Theresia Henrietta Dorothea)。異父妹にスペイン王アルフォンソ12世の王妃マリア・クリスティーナがいる。

1875年のモデナ公フランチェスコ5世の死去により、マリア・テレジアはジャコバイトの支持においてのイングランド女王メアリー4世、スコットランド女王としてはメアリー3世となった。マリア・テレジアは1919年に69歳で死去した。

子女

夫ルートヴィヒ3世との間に13人の子女をもうけた。

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マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=エステ (1849-1919)

1849年7月2日 - 1919年2月3日

ドイツの君主
先代
マリー・フォン・プロイセン
バイエルン王妃英語版
1913年11月5日 – 1918年11月7日
空位
ドイツ革命による称号の廃止
次代の在位者

王制廃止
請求称号
先代
フランシス1世
— 名目上 —
ジャコバイトの女王
1875年11月20日 – 1919年2月3日
次代
ロバート1世/4世



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