ポロヴェッツのルーシへの襲来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)
「キプチャク」の記事における「ポロヴェッツのルーシへの襲来」の解説
「アリタ川の戦い (1068年)」も参照 1055年、ポロヴェッツはボルーシという者に率いられ、ルーシの地に現れる。ペレヤスラヴリ公のフセヴォロドは彼と和を結び、ポロヴェッツ人はもとの所へと引き返した。 1061年、ポロヴェッツはソカルという者に率いられ、初めてルーシの地に侵攻した。2月2日、フセヴォロドは出陣し、ポロヴェッツと戦ったが敗北した。ポロヴェッツは少し攻めた後、去って行った。以降、ルーシの人々は彼等のことを「邪教を信ずる者等(ポガーヌイ)」と呼び、神を知らぬ仇敵共からの災厄ととらえた。 1068年、多数のポロヴェッツ人がルーシの地に侵攻して来たため、キエフ大公イジャスラフ1世、チェルニゴフ公スヴャトスラフ及びフセヴォロドらはレタ(アリタ)河畔に出陣し、夜半に兵を進めた。しかし、ポロヴェッツに打ち負かされ、ルーシの諸公は逃走した。11月1日、ポロヴェッツは再びルーシの地に侵入し、チェルニゴフの近郊を攻めた。チェルニゴフにいたスヴャトスラフは僅かな親衛隊を集め、彼らに向かってスノフスクの方へ出陣した。ポロヴェッツは進み来るスヴャトスラフの軍を見て、戦闘の準備を始めた。スヴャトスラフの軍は3千であるのに対し、ポロヴェッツの軍は2万であったが、スヴャトスラフらは馬に乗って突撃し、ポロヴェッツ軍を撃ち破った。ポロヴェッツ人のある者はスノヴィ川で溺死し、ある者は捕虜にされた。 1071年、ポロヴェッツはロストヴェツおよびネアチンの近くを攻めた。 1078年8月25日、スヴャトスラフの子オレーグ(ru)及びヴャチェスラフの子ボリス(ru)はポロヴェッツをルーシの地に導いて、ポロヴェッツと共にキエフ大公フセヴォロド1世を攻撃した。フセヴォロド1世はこれに対抗してソージ川に出陣した。ポロヴェッツはルーシを打ち負かし、ジロスラフの子イヴァン、チューヂンの兄弟トゥーキ、ボレイその他多くを戦死させた。 1079年、スヴャトスラフの子ロマンがポロヴェッツを率いてヴォルイニにやって来た。フセヴォロド1世はペレヤスラヴリの近くに留まり、ポロヴェッツと和を結んだ。ロマンはポロヴェッツと共に引き返したが、8月2日にポロヴェッツによって殺害された。 1082年、ポロヴェッツの侯オセニが死去する。 1092年、ポロヴェッツはペソーチェン,ペレヴォロカ,プリルークの3つの町を占領し、両側の多くの村々を攻めた。同じ年、ポロヴェッツはロスチスラフの子ヴァシリコと共にリャフ人(ru)と戦う。
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