ポル・ポト派のプノンペン制圧に対する報道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 10:09 UTC 版)
「朝日新聞」の記事における「ポル・ポト派のプノンペン制圧に対する報道」の解説
1975年4月19日の夕刊2面において、4月17日のクメール・ルージュ(ポル・ポト政権)のプノンペン制圧に関し、「武力解放のわりには、流血の跡がほとんど見られなかった」と述べ、「敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる」という文章が掲載された。この4日後の4月23日にバッタンバン市で、ロンノル派将校や下士官が何百人と虐殺された件は、早くから国外にも伝わった。また、署名入り記事を書いた当の記者は、陥落時にプノンペンには居らず、直にポルポト派に接した日本人記者も、陥落前兵士に取材した読売記者以外いなかった。山田寛は当時の風潮について、日本のジャーナリスト、学者にも『解放勢力』を応援し、主観的に『ポルポトは虐殺していない』と唱え続けた人たちがいたと述べている。
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