ポリュビオスによる記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:06 UTC 版)
「アレティウムの戦い」の記事における「ポリュビオスによる記録」の解説
ポリュビオスは、デンテルの後任者をマニウス・クリウス・デンタトゥスと記録している。彼はローマ人の捕虜を解放するよう交渉しようとしたが、使者を殺されてしまった。ローマは進軍、セノネス族と遭遇し、激戦の末打ち破った。 セノネス族は北イタリアに住むガリア人の部族である。ポリュビオスは非常に一般的なガリアという用語を使っているが、ローマ人が北イタリアのガリア人支配領域に名付けたガリア・キサルピナを意味していた。 この激突はアドリア海に面したアゲル・ガリクス(英語版)で行われたと考えられ、ポリュビオスは「ローマ人はセノネス族の領地を侵略し、大多数を殺して残らず追い払い、植民地セナ・ガリカ を設立した」と書き記しているが、この戦いの指導者については明記していない。 彼はまたこうも記している。「ボイイ族はこの時、セノネス族がその領土を追われるのを目撃し、彼ら自身もまた同じ運命を辿るのではないかと恐れてエトルリア人に救援を請い、全軍でもって出撃した。連合軍はウァディモン湖近くでローマ軍を攻撃したが、大部分のボイイ族が逃げ出してしまいエトルリア軍は壊滅した」次の年、ボイイ-エトルリア連合軍はローマ軍と再戦したが、完膚なきまでに叩きのめされ、完全に心を折られてしまった彼らは遂に使者を送り、条約を結んだ。
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