ホージャ・オグル王家
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「ホージャ・オグル」の記事における「ホージャ・オグル王家」の解説
ホージャ・オグルの子孫について、史書ごとによって記述は大きく異なる。『集史』はトクメ(Tükme,توکمهTūkme)とブスジュ・エブゲン(Tötaq,بوسجو ابوکان)という二人の息子がいたするが、『元史』宗室世系表ではこれと全く異なるイルゲンツェン王(Irgendzan,亦児監蔵)とオルジェイ・エブゲン王(中国語版)(Ölǰei Ebügen,完者也不干)という二人の息子がいたと記す。また、『五族譜』では『集史』の記述に加えてトゥクルク(Tötaq,توقلوقTūqlūq)という息子がいたとも記す。 一方、『元史』宗室世系表ではホージャ・オグル(忽察)の弟のホク(禾忽)の息子にトゥクルク(禿魯)がいたとするが、ホクとトゥクルクの活躍年代から見て両者が親子関係にあったというのは疑わしく、『五族譜』に従ってトゥクルク(禿魯=توقلوقTūqlūq)はホージャ・オグルの息子とするのが正しいと考えられている。また、ホクにはトクメという息子がおり、更にその息子もトクメという名前であったと伝えられるが、これらとホージャ・オグル家のトクメとの関係は不明である。 ホージャ・オグルのウルスがどのように推移したかは不明であるが、至順2年(1331年)にはホージャ・オグルの息子のオルジェイ・エブゲン王のウルスが飢饉になったため、朝廷がこれを救済したという記録が残されている。
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