ホケの山古墳(ほけのやまこふん)
当時(弥生時代)にはまだ文字がなく、国内の記述から日本の様子を知ることはできない。もっぱら中国の書物に頼ることになる。この時期の日本の様子を記述している中国の書物には「漢書地理誌」や「後漢書東夷伝」、「魏誌倭人伝」などがある。
今回注目されているのはこの「魏志倭人伝」に記載されている女王「卑弥呼」である。卑弥呼は3世紀に邪馬台国という小国を治めていたことが分かっている。
ここで問題なのが、その邪馬台国の位置である。これまで邪馬台国は九州にあったとする「九州説」と奈良域にあったとする「畿内説」とがあった。ところがこの2説にはどちらも決定的な証拠がなく、永らく、邪馬台国の場所は謎のままだった。
魏誌倭人伝には卑弥呼は「怪百余歩(約140m)」の墓を建てた、とある。とすると、この墓がどこにあるのかが分かれば、邪馬台国の位置を決定付けることができるわけである。
今、「箸塚古墳」(奈良県桜井市)がその卑弥呼の墓ではないか、と言われている。箸塚古墳は奈良県にある。そうすると、邪馬台国は畿内で成立した、という「畿内説」が正しいことになる。
現在発掘が進んでいる「ホケの山古墳」はこの畿内説をさらに裏付ける有力な証拠になりそうである。というのは、箸塚古墳が卑弥呼の墓だとしても、その後、邪馬台国がどのように大和国家に発展していくのか、弥生時代と古墳時代との間が現在、分かっていないからである。
ホケの山古墳は弥生時代の墓であるにもかかわらず、後の前方後円墳に良く似た形をしている。また、ホケの山古墳は箸塚古墳に極めて近距離にある。つまり、ホケの山古墳は邪馬台国内で建てられた、と考えるのが自然である。
邪馬台国で前方後円墳が建てられ始め、それが後に、大和国家の古墳につながった、と考えることができる。つまり、邪馬台国が大和国家に発展したと見ることができるわけである。今後、ホケの山古墳の発掘が進めば、これを裏付けるもっと有力な証拠が出てくるかもしれない。
(2000.03.29更新)
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