アケメネス朝ペルシャ帝国のカンビュセス2世は紀元前525年、エジプト第26王朝に侵入し、ペルシウムの戦い(英語版)で決定的な勝利をおさめエジプトを征服した。ヘロドトスがペルシウムを訪れた際、まだ周囲の野原には遺骨が散乱している状態だったという。紀元前5世紀の歴史家クテシアスは、ペルシャ側の死者7千人に対してエジプト側の戦死者は5万人と伝えているが、2世紀の歴史家ポリュアイノスは、カンビュセス2世は歩兵らに、エジプト人が崇拝するバステト神と結びつく神聖な生き物である猫を前に持たせて前進したため、エジプト人は戦わずして退却したという伝説を伝えている (ポリュアイノス Stratag. vii. 9.)。
紀元前373年には、アケメネス朝のフリュギアのサトラップであるファルナバゾスと、アテナイの将軍イフィクラテースの連合軍がペルシウムの前に出現したが、戦わずに退却していった。エジプト第30王朝のネクタネボ1世はペルシウム周辺の土地を水没させ、航行可能な水路を封鎖することによりエジプトを守った (シケリアのディオドロス xv. 42; コルネリウス・ネポス, Iphicrates c. 5.)。しかし紀元前343年、ペルシウムは再度アケメネス朝に攻められ、陥落した(ペルシウムの戦い(英語版))。ペルシウムは5千人のギリシャ人傭兵に守られており、緒戦ではペルシャ軍の中のテーバイ兵の軽率な攻撃もあってエジプト側が有利に戦ったが、ネクタネボ2世による早まった用兵によりエジプト側は撃破され、ペルシウムは降伏し、アケメネス朝がエジプト第30王朝を滅ぼすことにつながった (シケリアのディオドロス xvi. 43.)。
紀元前333年、ペルシウムはアレクサンドロス3世の前に降伏した。アレクサンドロスはペルシウムに兵営を置いた (アッリアノス, アレクサンドロス東征記 iii. 1, seq.; クイントス・クルティウス・ルフス iv. 33.)。
^Talbert, Richard J. A., ed (15 September 2000). Barrington Atlas of the Greek and Roman World. Princeton, New Jersey: Princeton University Press. pp. 70, 74. ISBN978-0-691-03169-9
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